警備業の不当事案や不祥事を新人研修で教えた!
こんにちは、kenji@irohanixです。
今回は、先日投稿した『新人研修で教えていた内容』の続きを伝えていきたいと思います。
長年にわたって経験と資格を持ち、研修で活用してきました。
そんな私が15年間で取得した資格は
交通誘導警備業務2級 交通誘導警備業務1級
雑踏警備業務2級 雑踏警備業務1級
施設警備業務2級 施設警備業務1級
警備員指導教育責任者1号 警備員指導教育責任者2号
機械警備業務管理者 セキュリティ・プランナー
その他普通救命講習など
これは新任研修で実際に講義していた経験をもとに載せています。
日本における警備業についての歴史を前回の記事でお話ししましたが、ほぼほぼ良い事ばかりを伝えてきました。警備員ってカッコいいなぁって感じです!
警備業界史みたいになっちゃうんですが、ただ、警備業界も日本で誕生してから、約50年ちょっとの歴史だけなんですね!
今回はそんな浅い歴史の中で警備会社や警備員の不当事案や不祥事についての話になります。
なぜなら、これから警備員になろうとする人たちに、昔はこんな事件があったんだよ!って事を伝えて、過去の事件を繰り返さないように注意喚起する為に伝えていました。
前回の講義の確認はこちら↓↓
そして今回はこの話!
当時の主な不当事案や不祥事としてあったのが次の事案になります。
その当時の警備業の不当事案や不祥事とは?
まず始めに、代表的なのは『永山事件』ですね。
そうなんだよね!
これは、昭和43年10月から11月にかけて、東京都・京都府・北海道・愛知県の4都道府県において、犯行当時19歳の少年だった『永山則夫』という人物が相次いで起こした拳銃による連続殺人事件になります。
詳細は、犯行当時19歳だった永山則夫が海軍施設に侵入して、のちに凶器として使用される拳銃を盗んだことが始まりとなります。
永山はこの拳銃を用いて、社会への復讐のため(今の時代でも起きそうな事件ですが・・・)、短期間のうちに4人を射殺した4つの事件の事になります。
その4つの事件とは
- 一つ目は1968年10月11日に東京プリンスホテルにて、綜合警備保障に勤務する27歳の警備員に対して、拳銃を2発も撃って射殺した事件。
- 二つ目は1968年10月14日に、京都府の八坂神社で境内を巡回していた69歳の守衛に対して拳銃を6発も撃って射殺した事件。
- 三つ目が1968年10月26日に北海道で31歳のタクシー運転手に対して拳銃を2発も撃って射殺した事件。
- 四つ目は1968年11月5日に愛知県で22歳のタクシー運転手に対して4発も撃って射殺した事件。
これら4つも事件を重ねてきて、その後の1969年4月7日に永山則夫は一連の犯行に使用した拳銃を持って、今度は千駄ヶ谷にある専門学校に金銭の窃盗目的で侵入したしました。
ところが、機械警備の警報で駆けつけた日本警備保障の警備員に見つかってしまうのですが、永山則夫は拳銃を発砲して隊員がひるんだスキに逃走してしまったのです。
けれども、警視庁が緊急配備を発令して、数時間後、永山則夫は警戒中のパトカーに発見されて逮捕されました。
その時の警備員さんは勇敢にも
永山則夫に警戒棒一つで立ち向かっていったんですね。
という事件でしたが、その当時では警備員には武器という武器を持つことが禁止されてました。
なので、唯一持ってもいいよ!って許されていたのが警戒棒だけだったんですね。
現金輸送や夜間の施設警備の警備員さんが携帯している警戒棒ですね!
最近では自分の護身用に持っている人もいたりします(‘ω’)ノ
マニアには我が家にもある格好いい三段式で伸び縮みするタイプがオススメですね!
そして2018年6月って、すごく最近の事件で、あなたの記憶にも新しいとは思いますが、
富山で警察官から拳銃を奪って、逃げた元自衛官が耐震補強工事中の学校に逃げ込み、そこで発砲した玉が交通誘導警備に従事していた69歳の警備員さんに命中して、亡くなってしまったという事件もありましたね(´;ω;`)ウッ…
こんな事件も起こっているので、新人研修の時にはちょっと驚かれたりもしますが、危険なことが隣り合わせであるんだよって伝えています。
だって、普通の人が生活している中でなかなか交通事故に遭遇したり、犯人に接触したりって事は無いですよね!ただ、『安全を守る警備員さん』だったらそう言ったことがすごく身近で起こってしまう可能性があるんですね!
だから、ホントに明日は我が身ではないですが、自分の周囲の警戒はきちんとしないといけないですね。 そして他には・・・
警備業者が暴力を伴う労働争議に介入していた!
これは1970 年前後に特別防衛保障株式会社などの警備業者 による、労働争議や社会・学生運動への物理的暴力を伴う介入が頻発した事件です。
特別防衛保障株式会社は元陸軍大尉の飯島勇という人物によって設立され、学生運動や労働争議などに介入して『潰し』を専門としていました。
社員という名の『警備員』は飯島の母校である拓殖大学や国士舘大学などの格闘技系や体育会系の学生やOBなどの俗に言う『チンピラ』が中心でいました。
その仲間たちを20 人から 100 人の警備員に仕上げて、経営側によるロックアウトや春闘時に投入されていたのです。(この当時法律が出来ていなかったのでやりたい放題)
このような人数の警備員を企業によって直接雇用することは、企業側の立場からすれば非効率であるため、 企業と警備員との間に雇用関係が生じない請負警備だからこそ、一時的に数十人の警備員という争議対策要員を「調達」 することが可能だったのです。
これも事件の要因の一つと考えられています。
特別防衛保障株式会社の存在は当時において、『労働争議潰し』や『労働組合潰し』を担う警備業者の中心的存在でありました。
この警備業者は、特別防衛保障の創業者である飯島勇によると、1960 年のいわゆる「60 年安保」時に飯島が結成した「反共防衛隊」の構成員が、後に特別防衛保障の中心メンバーになったと言われております。
そこで、ストライキ等がある企業や会社に出向いては、営業という名目で取締役等から金銭を要求して 「警備業務」という名目で企業や大学内部での襲撃・労働争議介入行為ができるようになり、「護身用具」として群集鎮圧のための凶器類を集めては労働争議つぶしや労働組合つぶしを行っていたのです。
このような社会的問題がその後の法律の制定に大きく関わってきているのです。それが1972年に制定された警備業法でガードマン規制法なんて言われたりしていましたね。
そして『警備業法第15条』には基本原則があります。
その後段に今まで話した事件が背景となって急遽、法律の条文に『干渉してはダメですよ』って文章が追記されたんですね!
こんな感じで1時限目の『資質の向上』的なところで話をしてから、2時限目の警備業法という講義に入って話をしていました。
だいたい、研修の初日の講義で向き不向きを感じる人が多くて、一日だけ受講して帰宅後に『妻に反対されたので辞めます』とか『自分には危険すぎる』と言った理由で退職される方が多かったですね。
だから警備業自体も定着率がかなり低いですね・・・
そんな時にはこちらで転職活動先を探してみるのもありかも!きっと世界が変わるはず(=゚ω゚)ノ
ただ、これからの警備業としては着実に普通のサラリーマンとしての職業的地位を作り上げてくると思うので継続して頑張っていきましょう!(^^)!
ご一読、有難うございました。
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